釘抜地蔵 石像寺 京都市上京区

「釘抜地蔵」石像寺(しゃくぞうじ)へ 京都市上京区


お盆休暇を頂いていたのですが、お盆もずっと京都にいました。「大文字」こと五山の送り火の日には、京都は豪雨でした。豪雨ながら火がついたのには少し驚きました(初回投稿当時)。

さて、京都市上京区にある本社を東へ少し進み、千本通を上に上がって上立売通を越えた東側に「釘抜地蔵」こと石像寺(しゃくぞうじ)というお寺があります。お盆ということでお地蔵さんめぐりです。

釘抜地蔵尊(入口)京都市上京区

釘抜地蔵尊(入口)京都市上京区

早速釘抜きです。

釘抜きのモニュメント

釘抜きのモニュメント

京都市上京区の西陣エリアを南北に貫く千本通(旧朱雀大路の延長線上)沿い、上立売通を少し北へ上がった東側の花車町に、古くから「釘抜地蔵(くぎぬきじぞう)」の通称で親しまれている浄土宗の寺院・石像寺(しゃくぞうじ)があります。正式には「家隆山 光明遍照院 石像寺(かりゅうざん こうみょうへんじょういん しゃくぞうじ)」と号し、平安時代初期の弘仁10年(819年)に弘法大師・空海によって創建されたと伝わる歴史ある古刹です。

境内に入ると、まず目に飛び込んでくる巨大な釘抜きのモニュメントや、本堂(地蔵堂)の壁面を隙間なく埋め尽くす実物の「八寸釘」と「釘抜き」を貼り付けた無数の絵馬が圧倒的な存在感を放っています。もとは人々のあらゆる心身の苦痛を抜き去る「苦抜(くぬき)地蔵」として信仰を集め、そこから音が転じて「釘抜地蔵」と呼ばれるようになったという独特の由緒を持ち、さらに本堂の背後には鎌倉時代初期の貞応3年(1224年)という明確な紀年銘を持つ国指定重要文化財の石造阿弥陀三尊像および石造地蔵菩薩立像が安置されています。庶民の切実な病気平癒・苦難除去の祈りが結晶化した民俗信仰の場であると同時に、平安京北辺の葬送地・蓮台野(れんだいの)の入り口という歴史地理的な文脈や、新古今和歌集の選者である藤原家隆ゆかりの伝承、中世石造美術の貴重な遺品を今に伝える、上京区・西陣エリアでも有数の奥深い寺院です。

釘抜地蔵(くぎぬきじぞう)

釘抜地蔵 石像寺 京都市上京区

釘抜地蔵 石像寺 京都市上京区

釘抜地蔵こと石像寺(しゃくぞうじ)は、819年(弘仁10年)に弘法大師・空海によって建立された寺院です。京都市上京区にあります。元は真言宗のお寺ですが、現在は浄土宗のお寺です。

釘抜地蔵 石像寺の案内(京都市より)

釘抜地蔵 石像寺の案内(京都市より)

名前の由来は「苦抜地蔵」から転じて釘抜地蔵という呼称になったとされています。

釘抜地蔵の入口

釘抜地蔵の入口

「釘抜地蔵」石像寺(しゃくぞうじ)の門を通り中に進みます。

石像寺境内 お堂

石像寺境内 お堂

石像寺の境内を進みます。

空海が唐から請来した石仏の伝承と「苦抜地蔵」の信仰

石像寺の縁起や江戸時代の地誌『都名所図会』『雍州府志(ようしゅうふし)』などの記録によれば、本尊である地蔵菩薩像(釘抜地蔵)は、弘法大師・空海が唐(中国)へ渡った際に持ち帰った特別な霊石を用いて、帰国後に空海自らが彫刻した石仏であると伝えられています。空海はこの石造の地蔵菩薩を安置するために堂宇を建立し、「石像寺」と名付けました。

この地蔵菩薩は、人々の身に降りかかるあらゆる病苦や煩悩、心の苦しみを抜き取って救済する霊験があるとして、当初は「苦抜地蔵(くぬきじぞう)」と呼ばれて篤く信仰されていました。日本語の音韻変化によって「くぬき(苦抜)」が「くぎぬき(釘抜)」へと転じ、室町時代末期頃からは文字通り「体や心に刺さった苦しみの釘を引き抜いてくださるお地蔵様」としての具体的な信仰形態が確立していきました。

「八寸釘」と釘抜きの絵馬

境内にはたくさんの「釘抜き」があります。

お堂を一周すると「八寸釘」と「釘抜き」を貼り付けた絵馬が数えきれないほどお堂に設置されています。

釘抜きの絵馬2 「釘抜地蔵」石像寺

釘抜きの絵馬 「釘抜地蔵」石像寺

もともとは心身の苦痛を取り除く「苦抜(くぬき)地蔵」と呼ばれていましたが、時代とともに音が転じ、物理的な痛みを引き抜く「釘抜地蔵」として信仰を集めるようになりました。

釘抜きの絵馬 「釘抜地蔵」石像寺

釘抜きの絵馬 「釘抜地蔵」石像寺

目に見えない苦しみを「体に刺さった見えない釘」に例え、それを実在する八寸釘と釘抜きの絵馬によって奉納するという形は、当時の民衆の豊かな想像力と切実な願いの表れなのかもしれません。

釘抜きの絵馬 「釘抜地蔵」石像寺たくさんの釘抜き御礼絵馬が掲げられています。

壁一面を覆う絵馬は、かつてここで救われた無数の人々の安堵の声そのものといえます。

室町時代の商人・紀ノ国屋道林の霊験譚と絵馬奉納の起源

釘抜きの絵馬3 「釘抜地蔵」石像寺

釘抜きの絵馬3 「釘抜地蔵」石像寺

本堂の外壁一面に「八寸釘(約24センチメートルの大きな和釘)2本」と「鉄製の釘抜き1挺」を結びつけた絵馬が奉納されるようになった直接の起源については、室町時代末期の弘治2年(1556年)頃に起きた「紀ノ国屋道林(きのくにやどうりん)」という商人にまつわる有名な霊験譚が伝えられています。

当時、京都に暮らしていた紀ノ国屋道林はある日突然、両手に激しい疼痛(うずくような激痛)を覚え、あらゆる医療や薬を試してもまったく快方に向かいませんでした。困り果てた道林は、霊験あらたかであった石像寺の地蔵菩薩のもとへ日参し、7日間の断食参籠(おこもり)を行って一心不乱に平癒を祈願しました。すると満願を迎えた7日目の夜、道林の夢枕に気高い地蔵菩薩が立ち、「お前が今苦しんでいる激痛は、前世において人を深く恨み、呪いの人形(藁人形)の両手に八寸釘を打ち込んだ罪業の報いである。しかし、お前の深い懺悔と信仰心に免じて、私がその怨念の釘を抜き取ってやろう」と告げて、道林の両手から釘を引き抜く姿を示しました。

道林が夢から覚めると、それまで両手を苛んでいた激痛は嘘のように消え去っていました。驚喜した道林がすぐさま石像寺の本堂へ駆けつけて礼拝したところ、本尊の地蔵菩薩の御前に、赤く血に染まった2本の八寸釘が置かれていたと伝えられています。道林は地蔵菩薩の広大な慈悲に深く感謝し、抜かれた2本の八寸釘と1挺の釘抜きを赤い木製の板(絵馬)に括りつけて本堂に奉納しました。この出来事が都中に知れ渡ったことで、病気や怪我などの痛みから解放された人々が、御礼参り(報賽)として実物の八寸釘2本と釘抜きを貼り付けた絵馬を奉納する習わしが定着しました。現在も堂宇の壁を埋め尽くす無数の絵馬には、祈願成就を果たした参拝者の実名や年齢が記されており、室町時代から450年以上にわたって途切れることなく続く庶民信仰の生きた証となっています。

お百度参りと本堂を巡る独特の参拝作法

石像寺では、病気平癒や苦難除去を願う参拝者が本堂の周囲を時計回りに巡る「お百度参り」の作法が今も大切に受け継がれています。境内の入り口近くには竹で作られた数取り用の棒(百度木・算木)が納められた箱が置かれており、参拝者は自分の年齢の数、あるいは100本の竹棒を手に取り、本堂の正面で手を合わせては堂の周りを一周し、正面の箱に竹棒を1本ずつ戻していくという手順を繰り返します。

本堂の背面(裏側)には、ちょうど堂内に祀られている本尊や阿弥陀三尊像の背後にあたる位置に、地蔵菩薩のレリーフ(浮き彫りの尊像)が嵌め込まれた礼拝所が設けられています。参拝者はお堂を一周する際、この背面の尊像の前で足を止め、自らの体の中で痛みや病を抱えている箇所と同じ部分を撫でたあと、自分の患部をさすることで苦痛を抜き取っていただくという独自の参拝を行います。四方の壁に掲げられた幾重もの釘抜き絵馬に見守られながら静かに回廊を巡る空間は、他のお寺にはない独特の祈りの密度を湛えています。

石像寺の本堂

石像寺の本堂 京都市上京区

石像寺の本堂

石像寺の本堂には空海に因んで密教法具である五鈷杵などが置いてあります。

京都市の案内によると、釘抜地蔵の地蔵堂背後の「阿弥陀三尊像」は重要文化財で、鎌倉時代初期に作られたもののようです。

石像寺という寺号が示す通り、かつてこの地には数多くの優れた石仏が安置され、石を彫り出して仏の姿を刻むという素朴で力強い信仰が存在していました。

そして石像寺は建立から約1200年(弘仁10年は平安時代です)。歴史を感じますね。

石像寺の本堂2 京都市上京区

絵馬のインパクトに目を奪われがちですが、こうした歴史的価値の高い文化財が日常の風景に溶け込んでいる点も、西陣周辺の町歩きの大きな魅力に繋がっています。

国指定重要文化財「石造阿弥陀三尊像」と貞応3年(1224年)の紀年銘

釘抜きの絵馬4 「釘抜地蔵」石像寺

釘抜きの絵馬4 「釘抜地蔵」石像寺

石像寺の本堂(地蔵堂)の内部、本尊である釘抜地蔵(石造地蔵菩薩立像)の背後にある厨子には、国の重要文化財に指定されている「石造阿弥陀および両脇侍像(阿弥陀三尊像)」が安置されています。花崗岩(かこうがん)を彫り出して造られたこの石仏群は、中央に中尊である阿弥陀如来立像(像高約108センチメートル)、向かって右に観音菩薩立像、左に勢至菩薩立像を配する三尊形式をとっており、手前に立つ本尊の石造地蔵菩薩立像とあわせて一括で重要文化財に指定されています。

日本の美術史および石造美術の研究においてこの阿弥陀三尊像が極めて高く評価されている理由は、阿弥陀如来像の光背(こうはい)の裏面に「貞応三年(1224年)甲申十月十五日 勧進聖人法阿弥陀仏」という明確な造立銘(紀年銘)が刻まれている点にあります。鎌倉時代初期の貞応3年という制作年代と、造立を主導した勧進聖(かんじんひじり)の「法阿弥陀仏(法阿)」という人物名が判明している石仏は全国的にも非常に希少であり、中世京都における石仏彫刻の様式変遷を測る基準作として重要な位置を占めています。

彫刻の造形としては、南都(奈良)の復興期に活躍した宋人石工(伊行末ら)の技術や、鎌倉新仏教とともに発展した慶派仏師の写実的な作風の影響がうかがえ、硬質な花崗岩でありながら衣文(えもん)の流麗な彫り口や、慈悲深く引き締まった尊顔の表現に鎌倉時代初期ならではの格調高い気品が宿っています。

弘法大師空海の創建と宗派の変遷

弘仁10年(819年)に空海によって開創された当時は、真言密教による国家鎮護や加持祈祷の場としての色合いが強かったと考えられています。その後、時代が下るにつれて民衆の間に念仏信仰が広まり、現在の浄土宗へと転換していきました。

本堂に密教法具である五鈷杵が残されているのは、宗派を超えて空海への強い思慕と歴史の連続性が保たれている証拠であり、京都の寺院ならではの奥深さを感じさせます。

真言宗から真言律宗、そして浄土宗への変遷と俊芿・西山上人の足跡

石像寺が辿った約1200年の歴史は、平安時代から江戸時代にかけての京都における仏教潮流の移り変わりをそのまま映し出しています。弘仁10年(819年)に空海が真言宗の寺院として開創したのち、平安時代末期から鎌倉時代にかけては、当時の都人を捉えた末法思想と浄土信仰の高まりの中で、貴族や民衆が極楽往生を願う念仏の道場としての性格を強めていきました。

鎌倉時代に入ると、泉涌寺(せんにゅうじ)の開山として知られる月輪大師・俊芿(しゅんじょう)が当寺に入って中興し、一時は戒律を重んじる律宗(真言律宗)の寺院となりました。先述の貞応3年(1224年)銘を持つ石造阿弥陀三尊像を造立した勧進聖の法阿弥陀仏も、この鎌倉時代初期における念仏勧進と寺院復興の大きなうねりの中で活動した宗教者であったと考えられます。さらに、法然上人の高弟である証空(西山上人)もこの地で念仏を広めたと伝えられており、中世を通じて多様な宗派の聖(ひじり)たちが交わる霊場として機能していました。

その後、応仁の乱などの戦火によって堂宇は一時荒廃しますが、江戸時代初期の慶長19年(1614年)、西陣の浄土宗の名刹である千本ゑんま堂(引接寺)とも関わりの深い念仏僧・照誉(しょうよ、または忍誉)上人によって再興され、この時に正式に知恩院を総本山とする浄土宗の寺院へと改められました。現在の山号・院号である「家隆山 光明遍照院」のうち、「光明遍照」は『観無量寿経』にある「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」という浄土宗の根本経文に由来しており、真言密教の霊場から念仏信仰の寺院へと受け継がれた重層的な歴史を物語っています。

山号「家隆山」の由来となった歌人・藤原家隆と藤原定家の墓所

石像寺の山号が「家隆山(かりゅうざん)」と称される背景には、鎌倉時代初期を代表する歌人であり、藤原定家とともに『新古今和歌集』の撰者を務めた従二位・藤原家隆(ふじわらのいえたか、1158年〜1237年)との深い縁があります。藤原家隆は晩年に出家して法名を「仏性(ぶっしょう)」と号し、熱心に阿弥陀仏を信仰して念仏三昧の日々を送りました。

嘉禎2年(1236年)に病を得たのちは摂津国の天王寺(四天王寺)で夕日に向かって極楽往生を遂げたと『古今著聞集』などに記されていますが、生前に京都で深く帰依していた石像寺の境内にもその遺骨やゆかりの品が納められ、菩提が弔われたと伝えられています。

現在も石像寺の本堂裏手(東側の墓地エリア)には、鎌倉時代の優美な造形を伝える石造の五輪塔が3基並んで祀られており、それぞれ藤原家隆、同じく『新古今和歌集』撰者で『小倉百人一首』の撰者としても名高い藤原定家(ふじわらのていか)、そして室町時代に釘抜地蔵の霊験を広めた紀ノ国屋道林の供養塔(墓)として大切に守られています。王朝和歌の最高峰を極めた二人の大歌人の供養塔が、庶民の苦しみを抜く地蔵堂のすぐ裏手に静かに佇んでいる点も、石像寺の歴史の深さを示す大きな特徴です。

石像寺(しゃくぞうじ)

家隆山 光明遍照院 石像寺 京都市上京区

家隆山 光明遍照院 石像寺

京都市上京区千本通上立売上ル花車町503

千本通沿い、東側です。

葬送地「蓮台野」の入り口にあたる千本通の歴史地理的文脈

石像寺が位置する千本通上立売上ルという場所を京都の歴史地理から読み解くと、なぜこの地に地蔵信仰と阿弥陀信仰がこれほど強く根付いたのかがより明確に理解できます。千本通は平安京の中央を貫いていた朱雀大路をそのまま北へと延長した道であり、かつて平安京の北限であった一条大路を越えてさらに北上すると、そこは都の三大葬送地(風葬・火葬地)の一つである「蓮台野(れんだいの)」へと続く境界領域(冥界への入り口)でした。

平安時代から中世にかけて、亡くなった人々を蓮台野へと見送る葬列は必ずこの千本通を北へと進みました。そのため、この街道沿いには現世と来世の境界を司り、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天道)に迷う衆生を救済する小野篁ゆかりの「千本ゑんま堂(引接寺)」や、六道珍皇寺と並ぶ冥界の入り口の伝承地、そして人々の現世の病苦を抜き去り来世の極楽往生を導く「石像寺(釘抜地蔵)」や「上品蓮台寺(千本十二坊)」といった寺院が集中して建立されました。石像寺の本堂において、表側に現世の苦しみを抜く「地蔵菩薩」が立ち、すぐ背後に来世の極楽浄土へと迎え入れる「阿弥陀三尊像」が一体となって祀られている空間構造は、まさに生と死が交錯する蓮台野の入り口・千本通ならではの宗教的景観を今に伝えています。

石像寺(釘抜地蔵)の年中行事と参拝・アクセス情報

石像寺では毎月24日の地蔵菩薩の縁日に法要が営まれているほか、毎年8月24日の地蔵盆には「大施餓鬼会(だいせがきえ)」、12月24日には1年の締めくくりとなる「終い地蔵(しまいじぞう)」が執り行われ、全国から苦抜き・病気平癒を願う多くの参拝者や御礼参りの人々が訪れます。

所在地は、京都市上京区千本通上立売上ル花車町503です。拝観時間は午前9時から午後4時30分頃までで、境内の参拝は自由となっています。公共交通機関を利用する場合は、京都市バス「千本上立売」バス停から千本通を北へ徒歩約2分、または「乾隆校前」バス停から南へ徒歩約3分と非常にアクセスしやすい立地です。周辺には千本ゑんま堂(引接寺)や千本釈迦堂(大報恩寺)、北野天満宮、首途八幡宮などの名刹や史跡が徒歩圏内に点在しているため、西陣・千本エリアの歴史散策ルートとしてあわせて巡ることができます。

(初回投稿日 2016年8月23日)

京都市上京区のホームページ制作とWeb戦略


著者・監修 : 株式会社ファンフェアファンファーレ

2012年創業、京都のWeb制作・マーケティング会社。過去には公的機関(滋賀県産業支援プラザ等)での専門家登壇実績も有し、SEO対策、次世代のAI検索最適化(LLMO・AIO)、コンテンツマーケティングなど「事業の収益(ROI)に直結するノウハウ」を発信しています。 弊社では、証券外務員やFP(ファイナンシャルプランナー)といった金融・財務の有資格者の知見を事業に組み込み、単なるIT視点ではなく「確実な事業投資としてのWebマーケティング」を厳格に設計しています。そのため、「納品をゴールとした単発の制作請負」は行わず、新規制作数を170社超に限定。一方で、他社制作サイトの複雑なエラー修正・SEO改修(720件以上)や、公開後の継続的なサイト改良・マーケティング支援(現在も17社と中長期契約中)に圧倒的なリソースを集中しています。 表面的なデザインではなく、中小企業が競争を勝ち抜くための「本質的な集客の仕組み」をお届けします。 (執筆・監修:株式会社ファンフェアファンファーレ 代表取締役 桝井 晶平)

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