平等院鳳凰堂

平等院鳳凰堂・宇治神社・宇治上神社へ 京都府宇治市


天ヶ瀬周りを走った時に、「前までしか行ったことのなかった」宇治市の平等院、そして宇治神社、宇治上神社へ行きました。

平等院は、御存知の通り10円硬貨に刻まれている鳳凰堂があるところです。そして宇治神社はうさぎスポットです。

琵琶湖から流れ出た瀬田川が深い山間を抜けて「宇治川」へと名を変える天ヶ瀬から宇治橋周辺の一帯は、古来より大和と近江、そして平安京を結ぶ水陸交通の重要な拠点でした。風光明媚な渓谷と豊かな水流に恵まれたこの土地は、万葉集に数多くの歌が詠まれ、紫式部の源氏物語では後半の十帖(宇治十帖)の舞台となるなど、日本の古典文学と歴史において特別な位置を占めています。

宇治川の西岸(左岸)に広がる世界遺産の平等院と、中洲の橘島・塔の島に架かる橋を渡った東岸(右岸)に鎮座する宇治神社および宇治上神社は、単に距離が近いというだけでなく、歴史的にも深いつながりを持っています。かつて宇治神社と宇治上神社は二社で一つの「宇治離宮明神」として信仰されており、藤原道長・頼通父子が営んだ平等院を守護する鎮守社としての役割も担っていました。10円硬貨や一万円札でおなじみの平等院鳳凰堂から、宇治川を渡ってうさぎの伝承が息づく宇治神社、そしてもう一つの世界遺産である宇治上神社へと、宇治川両岸に連なる1000年の歴史をたどっていきます。

平等院鳳凰堂

世界遺産平等院鳳凰堂は、998年建立ですから、建った時から1000年以上経っています。

10円に刻まれる鳳凰堂と、さらに1万円札に印字されている鳳凰がこの場所にあります。

考えてみるとすごいですね。

宇治市は京都市のお隣なので、京都市内からはすぐに行くことができます。

さて、表参道を進むと入り口が見えてきます。

表参道は「さすがはお茶の産地」と言った感じです。

平等院表参道

平等院表参道

表参道を進みます。

平等院表参道からの入り口

平等院表参道からの入り口

そして平等院の入口の門。

平等院入口

平等院入口

こちらで拝観料をお渡しします。

入ってまっすぐ進むと鳳凰堂の側面が見えてきます。

平等院鳳凰堂サイド

平等院鳳凰堂(横から)

鳳凰堂周りの池の造りも見事です。

正面はもちろん十円と同じ。

平等院鳳凰堂

平等院鳳凰堂

やっぱり現物を見るといいですね。

別途ご志納金が必要ですが、鳳凰堂の中に入ることができます。

平等院鳳凰堂2

平等院鳳凰堂2

中には木造金箔塗りの阿弥陀如来坐像があります。

残念ながら、鳳凰堂にある阿弥陀如来坐像は撮影できないため、現地でお楽しみください。

左右非対称の顔であるため、鳳凰堂の中の右端・左端・中央など、見る角度によって表情が少しずつ異なります。

平等院ミュージアム鳳翔館では、鳳凰や木造雲中供養菩薩像のうちの半分などが展示されています。

平等院

拝観時間

  • 庭園 午前8:30~午後5:30(※受付終了 午後5:15)
  • 平等院ミュージアム鳳翔館 午前9:00~午後5:00(※受付終了 午後4:45)
  • 鳳凰堂内部 受付 午前9:10~午後4:10(20分毎の時間制です)

〒611-0021 京都府宇治市宇治蓮華116

世界遺産平等院 京都宇治(公式サイト)

宇治川が流れるこの一帯は、古くから天皇や貴族たちが狩猟や舟遊びを楽しむリゾート地として知られていました。

平等院のある場所には、もともと「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルの一人とも言われる左大臣、源融の別荘がありました。その後、陽成天皇、宇多天皇を経て、藤原道長の別荘である「宇治殿」となります。都の激しい権力闘争から離れ、風雅な時間を過ごすためのプライベートな空間が現在の平等院の原点です。

藤原道長から宇治殿を受け継いだ息子の頼通は、永承7年(1052年)にこの別荘を寺院へと改めました。これが平等院の創建です。この年号には、当時の社会を覆っていた深刻な思想が深く関わっています。

1052年は、仏教の教えが正しく伝わらなくなり、世の中に混乱と災難が蔓延するという「末法(まっぽう)」の時代に突入する最初の年と信じられていました。実際に疫病や災害が相次ぎ、治安が悪化していく中で、貴族たちの間には強い不安が広がります。この絶望的な現世から逃れ、死後に極楽浄土へ生まれ変わることを願う浄土信仰が爆発的に流行した背景がここにあります。

創建の翌年である天喜元年(1053年)に、阿弥陀堂(現在の鳳凰堂)が建立されます。阿字池の中島に建てられたその姿は、水面に浮かぶ極楽浄土の宮殿そのものです。内部には仏師・定朝による阿弥陀如来坐像が安置され、周囲の壁や扉には極楽へ迎え入れる様子が色鮮やかに描かれています。

頼通は、莫大な財力を注ぎ込み、経典に描かれた理想の世界を物理的にこの宇治の地へ再現しました。

永承7年の末法思想と阿字池・翼廊が体現する浄土の空間設計

藤原頼通が父・道長から受け継いだ別荘「宇治殿」を寺院に改め、平等院を創建した永承7年(1052年)という年には、当時の貴族社会を覆っていた「末法思想(まっぽうしそう)」が深く関わっています。仏教の歴史観では、釈迦が入滅してから最初の1000年間を「正法(しょうぼう)」、次の1000年間を「像法(ぞうぼう)」と呼び、2001年目からは仏の教えだけが残って修行しても悟りを得ることができない「末法(まっぽう)」の時代が1万年続くと信じられていました。日本ではまさにこの永承7年が末法元年にあたると計算されており、都では火災や疫病、戦乱が相次いだこともあって、人々は世界の終末が訪れたかのような強い不安を抱いていました。

そうした時代の中で、阿弥陀如来の力にすがって極楽浄土へ往生することを願う浄土信仰が急速に広まり、頼通は平等院創建の翌年である天喜元年(1053年)に阿弥陀堂(現在の鳳凰堂)を建立しました。阿弥陀堂は東を向いて建てられており、前面に広がる「阿字池(あじいけ)」の東岸から池越しに御堂を拝むと、ちょうど西の方角にあるとされる西方極楽浄土を礼拝する構図になるよう緻密に設計されています。中堂の左右に翼廊(よくろう)を広げ、背後に尾廊(びろう)を延ばした軽快で優美な姿と、屋根の上に掲げられた一対の金銅鳳凰から、江戸時代初期頃から建物全体が鳥の鳳凰が翼を広げた姿に見立てられ、「鳳凰堂」と呼ばれるようになりました。

寄木造を完成させた仏師・定朝と雲中供養菩薩像、日本三名鐘の梵鐘

鳳凰堂の中堂に安置されている国宝の本尊・阿弥陀如来坐像は、平安時代中期を代表する大仏師・定朝(じょうちょう)の現存する唯一の確実な遺作として極めて高い価値を持っています。定朝は、複数の木材を組み合わせて内刳(うちぐり)を施し、分業によって精巧かつ巨大な仏像を造り上げる「寄木造(よせぎづくり)」の技法を完成させた人物です。浅く穏やかな衣文(えもん)の線と、慈悲に満ちた丸みのある表情を備えたこの仏像のスタイルは「定朝様(じょうちょうよう)」と呼ばれ、その後の日本の仏像彫刻の基準となりました。

また、阿弥陀如来坐像の頭上を飾る精巧な二重の天蓋(てんがい)や、堂内の長押(なげし)の上の壁面に掛けられた52躯の国宝「雲中供養菩薩像(うんちゅうくようぼさつぞう)」も見逃せません。雲に乗った菩薩たちが、琴や琵琶、笛、太鼓などの楽器を奏で、あるいは軽やかに舞い踊りながら往生者を迎えに来る様子が一躯ずつ異なる躍動感あふれる姿で彫り出されており、現在はその約半数が最新の保存環境を備えた「平等院ミュージアム鳳翔館」で間近に鑑賞できるようになっています。さらに鳳翔館には、屋根の上の初代国宝「鳳凰」とともに、神護寺(京都市右京区)・三井寺(滋賀県大津市)の鐘と並んで「日本三名鐘」の一つに数えられる国宝の「梵鐘(ぼんしょう)」も収蔵されています。天人や獅子、唐草文様が優美に浮き彫りにされた平等院の梵鐘は、古くから「形の平等院、銘の神護寺、音の三井寺」と称えられてきた名宝です。

源平合戦の宇治川の戦いと源頼政が最期を迎えた扇の芝

平等院の境内を歩いていると、平安貴族の華やかな浄土信仰の記憶とともに、平安時代末期の源平合戦の悲劇を伝える史跡にも出会います。治承4年(1180年)5月、後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)の令旨を奉じて平家打倒の兵を挙げた老武将・源頼政(みなもとのよりまさ)は、園城寺(三井寺)から奈良の興福寺へと向かう途中、この平等院で休息をとりました。しかし、平知盛や平重衡らが率いる2万8千騎ともいわれる平家の大軍が追撃してくると、頼政らは宇治橋の橋板を外して宇治川を挟んだ激しい防戦(宇治川の戦い)を繰り広げました。

「平家物語」にも詳しく描かれているこの合戦で、足利忠綱ら平家方の軍勢が急流の宇治川を馬で渡り切って攻め込むと、矢尽き刀折れた源頼政は、以仁王を南へと逃がす時間を稼ぐために平等院の境内へと退きました。そして、阿弥陀堂の西側にある芝生の上に自らの軍扇を敷き、「埋もれ木の 花咲くことも なかりしに 身のなる果てぞ 悲しかりける」という辞世の和歌を詠んで77歳で自刃したと伝えられています。現在も境内の観音堂の近くには、頼政が最期を迎えた「扇の芝(おうぎのしば)」が柵に囲まれて保存されており、隣接する塔頭の最明院には頼政の墓所も祀られています。

宇治神社

平等院から宇治川をわたって対岸に宇治神社があります。

宇治神社

宇治神社

中洲のある橋をわたってすぐです。

こちらで気になったのが「見返り兎」。

兎楽の樹と記される木が、鳥居横にあります。

兎楽の樹

みかえり兎

御祭神が、この地に住まいを定められて、河内の国より向かわれる途中、道に迷われ難渋している時に、一羽の兎が現れ、後からついて来られる御祭神を振り返り振り返り先導申し上げたという古伝により「みかえり兎」と言われ、この後、道徳に叶った正しい人生の道を歩むよう教え諭しているもので、神様のお使いとされております。
又、菟道という字を「うぢ」と読み、内なる場所の意味を持ち、後に「宇治 うじ」という字になったとも言われている。

宇治神社公式サイト 宇治神社とは 神使の兎より

うさぎにはすぐに反応してしまいます。

手水舎も、もちろんうさぎ。

宇治神社の手水舎

これだけうさぎメインの神社は京都市左京区の岡崎神社以来です。

また宇治神社公式サイトをはじめ、うさぎのイラストなどが、非常にうさぎらしいポーズをとっています。

見返り方、というのでしょうか、振り返りざまの曲線が、まさにうさぎそのものです(よく見る光景です)。

うさぎ好きにはたまらないスポットです。

応神天皇の皇子・菟道稚郎子命の離宮跡と学問・良道案内の信仰

宇治神社の御祭神である菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)は、第15代・応神天皇の皇子であり、古事記や日本書紀において非常に聡明で心優しい皇子として記されています。幼少の頃から学問を深く好み、朝鮮半島の百済から渡来した学者である阿直岐(あちき)や王仁(わに)を師として招き、論語や千字文などの典籍を学んで日本の儒学や漢字文化の発展に大きく貢献しました。

父の応神天皇から深く愛されて皇太子に立てられた菟道稚郎子命でしたが、応神天皇が崩御した後、「帝位は年長であり人徳も高い兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと・後の第16代仁徳天皇)が継ぐべきである」と考えて皇位を譲ろうとしました。しかし兄の大鷦鷯尊もまた父帝の定めを守って固辞したため、兄弟で互いに皇位を譲り合う状態が3年間も続きました。このまま空位が続いて天下の民が困窮することを憂いた菟道稚郎子命は、自らが営んでいた宇治の宮殿「桐原日桁宮(きりはらひげたのみや)」において自ら命を絶ち、兄が仁徳天皇として即位する道を開いたと日本書紀に伝えられています。

この桐原日桁宮の跡地に皇子の御霊を祀ったのが宇治神社と宇治上神社の始まりです。皇子の深い学識にちなんで古くから学業成就や受験合格、知恵授けの神様として信仰されているほか、皇子が河内国からこの宇治の地へと向かう途中で道に迷った際、一羽の兎が現れて後ろを振り返りながら皇子を先導したという「みかえり兎」の故事から、人生の岐路や迷いの中で正しい道へと導いてくれる「道案内」「良縁成就」「悪縁切り」の神社としても篤い信仰を集めています。

鎌倉時代の重要文化財本殿と中洲を渡る参拝の道のり

平等院から宇治神社へと向かう際に渡る宇治川の中洲(橘島・塔の島)と、東岸へ架かる朱塗りの「朝霧橋(あさぎりばし)」のロケーションも、宇治神社ならではの美しさを演出しています。朝霧橋を渡り切ると、まるで橋の延長線上にあるかのように宇治神社の赤い鳥居が正面に構えており、川のせせらぎを背にしながら境内へと入ることができます。

手水舎や兎楽の樹がある下の境内から石段を上ると、中央に拝殿にあたる「桐原殿(きりはらでん)」があり、その奥に国の重要文化財に指定されている「本殿」が鎮座しています。鎌倉時代後期の建立と伝えられる三間社流造(さんげんしゃながれづくり)・檜皮葺の本殿は、均整のとれた美しい屋根の曲線を持っており、内陣には平安時代後期に一木造で彫られた国宝級の重要文化財「木造菟道稚郎子命坐像」が御神体として大切に安置されています。

〒611-0021 京都府宇治市宇治山田1

宇治神社(公式サイト)

宇治上神社

宇治上神社

宇治上神社

また、宇治神社を少し上がった所に、宇治上神社があります。

宇治上神社は、世界文化遺産です。

が、時間が遅くご縁がなかったようです。

また出直すことにしましょう。

〒611-0021 京都府宇治市宇治山田59

宇治神社の境内から北東へ続く緩やかな坂道「さわらびの道」を100メートルほど上がると、背後の朝日山(仏徳山)の深い木々に包まれた世界文化遺産「宇治上神社(うじがみじんじゃ)」の鳥居前に到着します。今回は夕方の閉門時間を過ぎていたため門前での参拝となりましたが、次回改めて早い時間帯に訪れる際のために、この宇治上神社が宇治神社や平等院とどのような関係にあり、なぜ世界文化遺産に登録されているのか、その歴史と建築の価値を整理しておきます。

明治時代まで二社一体であった離宮上社・下社と平等院の鎮守の歴史

現在では「宇治神社」と「宇治上神社」はそれぞれ独立した二つの神社として並んでいますが、実は平安時代から江戸時代末期に至るまで、この二社は合わせて「宇治離宮明神(うじりきゅうみょうじん)」あるいは「離宮社」と呼ばれる一つの神社でした。宇治川のほとりに近い低い土地にある現在の宇治神社が「下社(離宮下社)」、そこから山裾を少し上がった高い場所にある現在の宇治上神社が「上社(離宮上社)」と呼ばれ、二社が一体となって菟道稚郎子命の桐原日桁宮の伝承地を守っていました。明治維新の後、明治12年(1879年)になって初めて下社が「宇治神社」、上社が「宇治上神社」として別々の神社に分離されたという歴史があります。

さらに重要なのが、対岸にある平等院との関わりです。平安時代に藤原道長が宇治殿を営み、子の頼通が永承7年(1052年)に平等院を創建するにあたり、この宇治離宮明神(宇治上神社・宇治神社)は平等院を守護する「鎮守社」として位置づけられました。藤原氏の篤い庇護のもと、宇治川の西岸には極楽浄土を体現した仏の「平等院」が建ち、東岸には土地の祖神を祀る神の「離宮明神」が鎮座するという、神仏習合の壮大な宗教空間が宇治川の両岸にわたって築かれていました。

現存する日本最古の神社建築である国宝本殿と宇治七名水の桐原水

宇治上神社が平成6年(1994年)に「古都京都の文化財」の構成資産として世界文化遺産に登録された大きな理由は、その境内に現存する日本最古の神社建築である国宝の「本殿」と、鎌倉時代前期の国宝「拝殿」が伝わっているためです。

本殿の建立年代については、近年行われた木材の年輪年代測定調査によって、康平3年(1060年)頃に伐採された檜(ヒノキ)が使われていることが判明しました。これは、藤原頼通が平等院鳳凰堂を建立した天喜元年(1053年)のわずか7年後にあたり、まさに頼通が平等院の鎮守社として整備した当時の社殿が、約960年もの歳月を超えてそのまま現代に残っていることを示しています。大きな一棟の覆屋(さやどう)の内部に、左殿(仁徳天皇)・中殿(応神天皇)・右殿(菟道稚郎子命)という三棟の一間社流造の社殿が横一列に収められた極めて珍しい構造をしています。

また、本殿の手前に建つ国宝の「拝殿」は、鎌倉時代前期に離宮の建物を移築したものと伝えられ、優美な縋破風(すがるはふ)の屋根を持つ寝殿造風の建築です。拝殿の右手前には、室町時代から茶人たちに愛用された「宇治七名水」の中で唯一枯れずに現存している湧水「桐原水(きりはらすい)」が今も清らかな水を湛えており、次回の日中の参拝ではぜひ間近で拝見したい見どころです。

天ヶ瀬から平等院・宇治川両岸を巡る散策ルートとアクセス案内

宇治川上流の天ヶ瀬ダム周辺から平等院、そして対岸の宇治神社・宇治上神社へと至る宇治の中心エリアは、車やバイクでのドライブ・ツーリングの立ち寄り先としても、歩いてじっくりと歴史をたどる散策コースとしても充実した魅力を備えています。

宇治川の中洲に架かる橋と源氏物語「宇治十帖」の舞台を歩く

平等院の表門や南門から宇治川の堤へと出ると、川の中央に細長く浮かぶ二つの島「塔の島(とうのしま)」と「橘島(たちばなじま)」からなる府立宇治公園へと橋を渡ることができます。上流側の塔の島には、鎌倉時代の弘安9年(1286年)に奈良西大寺の僧・叡尊(えいそん)によって建立された高さ約15メートルの石造十三重塔(国の重要文化財)がそびえており、現存する日本最大かつ最古級の石塔として宇治川の景観を引き締めています。

この中洲から東岸の宇治神社前へと架かる「朝霧橋」のたもとには、源氏物語「宇治十帖」のモニュメント像が建てられています。紫式部が執筆した源氏物語全54帖のうち、最後の10帖(橋姫から夢浮橋まで)は、都から南へ離れたこの宇治の地を主な舞台として、光源氏の息子とされる薫(かおる)と孫の匂宮(におうのみや)、そして宇治に隠棲する八の宮の三姉妹(大君・中君・浮舟)の繊細な心情が描かれています。宇治神社から宇治上神社の前を通って北へと続く「さわらびの道」をさらに数分ほど歩けば「宇治市源氏物語ミュージアム」もあり、王朝貴族が別荘地として愛した宇治の風土をより深く体感することができます。

平等院・宇治神社・宇治上神社へのアクセスと参拝時間の注意点

京都市内から車やバイクで宇治へ向かう場合は、伏見区の観月橋から宇治川沿い(または府道7号・15号など)を南東へ進むルートや、大津・天ヶ瀬方面から宇治川ライン(府道62号)を下ってくるルートがあり、平等院周辺や宇治川沿いに複数の有料駐車場が整備されています。鉄道を利用する場合は、JR奈良線の「宇治駅」から平等院まで表参道を通って徒歩約10分、京阪宇治線の「宇治駅」からは宇治橋を渡って平等院まで徒歩約10分です。一方、東岸の宇治神社および宇治上神社へは、京阪「宇治駅」から川沿いを南へ歩いて約5分〜10分と非常に近い距離にあります。

なお、今回の宇治上神社のように、寺社によっては夕方の早い時間に門が閉まる場合があるため、参拝の順序には少し注意が必要です。宇治上神社の参拝時間は午前9時から午後4時30分までとなっており、また平等院鳳凰堂の内部拝観も20分ごとの定員制で午後4時10分が最終受付(混雑時はさらに早く受付終了)となります。天ヶ瀬周辺などを走ってから宇治の中心部を巡る際や、午後から訪れる際には、各寺社のホームページ(ウェブサイト)等で最新の拝観時間を確認した上で、まず閉門や受付終了の早い「宇治上神社」と「平等院鳳凰堂の内部拝観」を先に済ませ、その後に宇治神社や宇治川の中洲、表参道のお茶屋街をゆっくりと散策するスケジュールを組むと、三社寺すべてを余すところなく楽しむことができます。

(初回投稿日 2016年6月2日)


著者・監修 : 株式会社ファンフェアファンファーレ

2012年創業、京都のWeb制作・マーケティング会社。過去には公的機関(滋賀県産業支援プラザ等)での専門家登壇実績も有し、SEO対策、次世代のAI検索最適化(LLMO・AIO)、コンテンツマーケティングなど「事業の収益(ROI)に直結するノウハウ」を発信しています。 弊社では、証券外務員やFP(ファイナンシャルプランナー)といった金融・財務の有資格者の知見を事業に組み込み、単なるIT視点ではなく「確実な事業投資としてのWebマーケティング」を厳格に設計しています。そのため、「納品をゴールとした単発の制作請負」は行わず、新規制作数を170社超に限定。一方で、他社制作サイトの複雑なエラー修正・SEO改修(720件以上)や、公開後の継続的なサイト改良・マーケティング支援(現在も17社と中長期契約中)に圧倒的なリソースを集中しています。 表面的なデザインではなく、中小企業が競争を勝ち抜くための「本質的な集客の仕組み」をお届けします。 (執筆・監修:株式会社ファンフェアファンファーレ 代表取締役 桝井 晶平)

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