情報化社会になると言われて、はやどれくらいの時間が経ったでしょうか。特に近年はウェブにおいても「コンテンツの時代に突入した」と囁かれています。
これはWebマーケティングやSEOの世界で、旧来からの方法論から「コンテンツ重視」にシフトしたことが最大の理由です。
では、そんな「コンテンツの時代」のコンテンツに求められるものは何なのでしょうか?
以前、「ライティングは雲泥の差 オウンドメディア運営」で少しお伝えしましたが、闇雲に書き続けても、ライティング能力はある地点からはそれほど上がるものではありません。
そして、むやみにコンテンツを増やしても、ライターの方のWebライティング能力は千差万別、ただコンテンツを吐き出すだけでは、ウェブユーザーのためにもなりません。
ユーザーのためになる、高品質なコンテンツがウェブ空間で求められるのは言うまでもありません。
「コンテンツの時代」に求められるコンテンツは、基本的には、疑問点に対する回答や新しい経験、またそれらへの案内です。購買ニーズに対する商品ページなども含まれるでしょう。
しかしながら、急速に生産し続けられるコンテンツの中で、情報の価値自体は、そんなセオリーだけではないはずです。
今回もウェブ雑談(ウェブはあまり関係ないかもしれませんが)として、一平タイムズに記載します。
新しく価値のある情報コンテンツ
これほどコンテンツが量産される現代であっても、まず新しく価値のある情報というものは、それほど頻繁に生み出されるものではありません。
なぜならば、新しく価値のある情報は、既存の膨大な情報から得た情報群から抽象化され、また、具体的に言葉として落とされた場合か、もしくは、独自の研究結果くらいしか、新しい情報というものは生まれてこないからです。
量産され続けるコンテンツは、既にウェブ空間などで溢れかえる情報を「まとめただけ」の情報であることがほとんどです。あとはその信頼性の担保をどうするかという点や、様々な情報への入り口として評価されているにすぎません。
コンテンツ量産に価値はあるでしょうか?
例えば、心理学のマーケティングの応用に関する記事などは、喩え話が異なり、私見が少し違っても、内容の要点自体はほとんど一緒です。
そこに独自の調査結果や実験結果が加わったりするとまた価値は異なりますが、そのような情報に価値はあるでしょうか?
また、法則性の証明自体が統計であり、「傾向がある」程度のことを詳しく調べないがゆえに断定していたりする情報に信頼を置けるでしょうか?
誰かが調べたことを、また誰かが調べ、同じレベルでのコンテンツを量産する、そのようなコンテンツ量産に価値はあるでしょうか?
これは、ウェブだけでなく、書籍などでも同じことです。
それは「まとめることによる有益性」という意味では新しく価値のある情報かもしれませんが、「誰も知らなかった新しく価値のある情報」や「異なる視点で説明して理解を深めさせてくれる新しいパターンの情報」というわけではありません。
先の例であれば、せめて2つ以上の法則を組み合わせて複合的な流れなどを検証してみるというものであれば、新しく価値のあるものなのかもしれません。
また一方で、新しく作られた動画コンテンツなどは、その内容が人の生活や知性を豊かにするとは思えないようなコンテンツばかりです。新しく、誰も知らなかったコンテンツではありますが、後に残される続けるほどの価値はそれほどありません。だからこそ、次々に新しいものを量産せざるを得なくなるのでしょう。
古典の格言の価値
それとは対照的に、古典文献の中で、比較的短文である「格言」と呼ばれるものは、わずか一行の言葉でも、その奥には非常に深い意味が内在しています。
これは、膨大な情報を一言で表したからであり、文字の数とその言語情報の価値が比例しないことの代表例です。
一言、一行にまとめられているだけで、ウェブコンテンツの「まとめ」のような羅列ではなく、一行に抽象化されています。言葉としては少ないですが、そこに込められた情報量は膨大になります。
しかし、そのような方式では、ウェブ空間で評価されることはほとんど無いでしょう。
しかしながら、時代を超えて読み継がれているものです。掃いては捨てられる情報のような切なさはありません。それほどの価値があれば、インターネットの出番はあまりないのかもしれません。
価値を評価するためもPageRankの転送がある
格言などにあるように、短文であまりに抽象化された文章は、それ自体が何かの問題を直接的に解決してくれたり、疑問に対する具体的な解決策の提示にはならないことがほとんどです。
通常SEOの分野で単独で価値のあるページは、検索キーワードというユーザーの疑問に対する解決策を具体的に提示するようなページがほとんどです。
しかし、こうしたアルゴリズムだけでページの価値を決めてしまうと、本来人間にとって価値のある抽象的な古典的格言は隅に追いやられていきます。
人に評価される優れた情報、優れたコンテンツは、特定の情報に対する具体的に網羅された解決策だけではなく、短い文章ながらも人に影響を与え、ある人にとっては1万字の「取扱説明書」よりも優れた解決策のきっかけ、ヒントになる可能性を秘めています。
そうした価値のある情報を埋もれさせないためにも、検索エンジンはリンクによるPageRankの転送という仕組みを使って、古典的な情報であってもたくさんの人に引用され、紹介されているページをしっかりと評価しようとしているのだと思います。
どれだけインプットして抽象化したかによって情報の価値は決まる
例えがいきなり飛躍するかもしれませんが、ノーベル賞を受賞する学者の方は、その分野に関する知識が膨大にあるはずです。受賞した論文はたったひとつの論文かもしれませんが、その裏には膨大なインプットと思考があったはずです。だからこそ評価の質も極めて高いものになります。
このコンテンツの時代に求められる情報は、ウェブにおいては、疑問点に対する回答や新しい経験、またそれらへの案内などが原則ですが、情報の価値自体は、例えばコンテンツの字数が2000文字であったとしても、その奥に10万字のインプットがあるような場合に出てくる情報です。
完全なオリジナルの研究でもない限り、情報の価値はインプット量と、それらの抽象化、そして信頼性の裏付けと独自検証としての具体化が価値を決定するでしょう。
しかし、それは汎く一般的に有益な情報としての価値です。
ウェブにおいては、アクセス数やリンク・シェア数、検索順位としてそれがランク付けされていくでしょう。
厳密な意味での「情報の価値」は多数決で決まるものではない
しかしながら、厳密な意味での「情報の価値」は多数決で決まるものではありません。
たった一行の格言が人生を変えるように、だれかのたった一言で、生き方が180度変わってしまうように、汎く一般的には価値が無いように見える情報でも「ある誰か」には、人生を変えるような情報であることも、可能性としては大いにあります。
それほどのインパクトがなくとも、たった一言のコンテンツでもそれを喜んでくれる人がいるかもしれません。
たとえ「おはようございます」の一言でも、その人が今日も生きていることの証になります(厳密にはそうでもないのですが…)。
もしそれが掃いて捨てられるような一日限りの情報でも、それを喜んでくれる人がいる可能性があるのならば、それは価値のある情報ではないでしょうか。
(初回投稿日 2016年4月25日)