建勲神社(たけいさおじんじゃ。一般には「けんくんじんじゃ」と呼ばれています)は、1870年(明治3年)創建の織田信長公を主祭神とし子の織田信忠卿を配祀する神社です。
平安京において玄武の山として北の基点となった船岡山にあります。旧称は健織田社、建勲社。1875年(明治8年)に別格官幣社に列格し、1910年(明治43)船岡山の山麓にあった社が山頂に遷祀されました。
それでは建勲神社の境内を進みましょう。
建勲神社境内

建勲神社境内
船岡山にあるため、石段は急勾配です。
京都市北区の船岡山に鎮座する建勲神社は、戦国時代の覇者である織田信長公を祀る神社として広く知られています。建勲神社が鎮座する船岡山は、標高100メートルほどの小高い丘ですが、京都の歴史において極めて重要な役割を果たしてきた場所です。

建勲神社境内 石段
四神相応の「玄武」と都の測量基準
延暦13年(794年)の平安京遷都の際、都の場所を選定する上で重要視されたのが風水の「四神相応」という思想でした。船岡山は、都の北方を守護する神獣「玄武」が宿る山と見なされ、平安京の中心を南北に貫く朱雀大路の北の延長線上に位置付けられました。
つまり、都の都市計画における測量の基準点としての役割を担っていたと考えられています。この小高い丘は、古代の天皇や貴族たちにとって都を邪気から守る霊的な防壁として認識されていました。
「大平和敬神」神石

「大平和敬神」神石
1970年(昭和45年)に旧本殿跡に建立奉納された「大平和敬神」神石。
以前本殿はこの場所にあったようです。

建勲神社境内から見える景色
ちなみに建勲神社の南側の鞍馬口通りには船岡温泉があります。
応仁の乱と「西陣」の語源となった軍事拠点
時代が下り室町時代後期になると、船岡山の地勢的な優位性は軍事的な意味合いを帯びてきます。応仁の乱(1467年)においては、山名宗全率いる西軍がこの船岡山周辺に陣を構えました。
現在、神社周辺の地域一帯を「西陣」と呼ぶのは、この西軍の陣地であったことに由来しています。都を見渡せるこの場所は、権力を巡る激しい争いの最前線となり、平和な祈りの場から血生臭い戦乱の舞台へと変貌を遂げた過去を持っています。
「敦盛」歌碑

「敦盛」歌碑
桶狭間の合戦出陣の時に織田信長公が舞われた「敦盛」の一節が刻まれた歌碑。
信長が桶狭間の戦いの出陣前に舞ったとされる幸若舞「敦盛」の有名な一節、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」という言葉が刻まれた石碑が建っています。

1910年(明治43)に船岡山の山麓にあった社が山頂に遷祀されました。
建勲神社本殿

建勲神社 本殿と拝殿 京都市北区
建勲神社の主祭神は、織田信長公、織田信忠卿です。
本能寺の変の後、天下人となった豊臣秀吉は、主君である信長の霊を慰めるため、天正12年(1584年)にこの船岡山を信長の廟所(お墓)として定めます。大徳寺での盛大な葬儀の後、壮大な寺院が建立される予定でしたが、この計画は途中で頓挫してしまいました。その後、江戸時代を通じて船岡山は静かな保護区として扱われましたが、信長を大々的に祀る施設が作られることはありませんでした。

建勲神社 本殿天下を統一した織田信長の偉勲を称え1869年(明治2年)に明治天皇が神社創立を宣下され、1870年(明治3年)創建されました。
近代的な国民国家を建設するにあたり、強力な指導力で日本をまとめ上げた信長の姿は、新しい時代の精神的支柱としてふさわしいと判断されたのかもしれません。秀吉の構想から約300年の時を経て、国家神道の枠組みの中で船岡山はついに信長を祀る聖地として完成しました。
義照稲荷神社

義照稲荷神社
建勲神社の中にある義照稲荷神社。

義照稲荷神社2
宇迦御霊大神、 国床立大神、 猿田彦大神が祀られています。

義照稲荷神社3
命婦元宮

命婦元宮
建勲神社の中にある命婦元宮。
船岡稲荷大神

船岡稲荷大神
建勲神社の中にある船岡稲荷大神。
名刀・宗三左文字
また、建勲神社には信長が愛用した名刀「宗三左文字(義元左文字)」などが所蔵されています。桶狭間で今川義元を討ち取った際に手に入れ、常に身近に置いていたとされるこの刀は、近年では刀剣をテーマにした文化的な広がりの中で若い世代からも熱烈な支持を集めています。
船岡山公園

船岡山公園から見える景色
建勲神社は船岡山にあり、隣には船岡山公園があります。標高112メートル程度の小丘にある公園です。

船岡山公園から見える景色2
北大路通りの方に進めば大徳寺があり、さらに今宮通まで進めば今宮神社があります。
〒603-8227京都市北区紫野北舟岡町42など
建勲神社 所在地

〒603-8227 京都府京都市北区紫野北舟岡町49
建勲神社(公式サイト。別タブで開きます)






