みなさま、新年あけましておめでとうございます!
今回は、ホームページ制作 京都 ファンフェアファンファーレの地元である北野天満宮に初詣に行きました。
御前通をまっすぐ北上するとそのまま北野天満宮の鳥居が見えてきます。

北野天満宮(今出川通から)
ほとんど説明不要の感じはしますが、北野天満宮は、防府天満宮、太宰府天満宮と並んで、日本三大天神(日本三大天満宮)のひとつです。私たちのイメージでは、北野天満宮、太宰府天満宮、大阪天満宮が三大天神と習ったような気がします(関西のイメージでは、防府天満宮より大阪天満宮です)
京都市上京区馬喰町(ばくろちょう)に鎮座する北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、平安時代の学者・政治家である菅原道真公(すがわらのみちざねこう)を主祭神としてお祀りする神社です。福岡県の太宰府天満宮とともに、全国に約1万2000社あるとされる天満宮・天神社(てんじんしゃ)の総本社であり、日本における「天神信仰」の発祥の地として1000年以上の歴史を誇ります。天暦元年(947年)の創建以来、朝廷から国家の重大事を祈願する「二十二社」の一社として篤い崇敬を受け、近代社格制度においては旧官幣中社に列せられました。
地元・京都の人々からは親しみを込めて「北野の天神さん」「天神さん」と呼ばれ、学問の神様・至誠の神様・芸能や厄除けの神様として、初詣や受験シーズンをはじめ年間を通じて全国から多くの参拝者が訪れます。境内には、豊臣秀頼公によって慶長12年(1607年)に造営された国宝の御本殿(八棟造)や重要文化財の三光門・楼門など、安土桃山時代の絢爛豪華な建築美がそのまま残されているほか、豊臣秀吉公が築いた国指定史跡「御土居(おどい)」や北野大茶湯の舞台など、京都の都市史・文化史を語る上でとても重要な史跡が数多く息づいています。
北野天満宮へ

北野天満宮の鳥居
北野天満宮は、大晦日、三が日は人でいっぱいなので、少し時期をずらして初詣です。
毎月25日に縁日があるため、特に正月に行く必要もないというイメージがあります。どちらかというと、2月の梅、10月の瑞饋祭(ずいきまつり)、そして年末の終い天神のほうが地元の人でいっぱいになります。
12月25日は、その年最後の「終い天神」のため、地元ではクリスマスよりも天神さんの縁日の方が印象強いのではないでしょうか。
さて、境内を進みます。

わくわくの りんご飴
…
進みましょう。

北野天満宮へ初詣 京都市上京区
きっちり、今年の干支の酉です。
さらに進みましょう。
菅原道真公の生涯と天暦元年(947年)の創建由緒
北野天満宮の御祭神である菅原道真公は、承和12年(845年)に代々学問を家業とする菅原家に生まれ、幼少の頃より類まれな詩才と学識を発揮して学者としての最高位である文章博士(もんじょうはかせ)に任じられました。第59代・宇多天皇および第60代・醍醐天皇からの篤い信任を受けて政界でも異例の昇進を遂げ、昌泰2年(899年)には右大臣の地位に昇り詰めます。しかし、昌泰4年(901年)、左大臣・藤原時平らの讒言(ざんげん・事実を曲げた告げ口)によって突如として大宰権帥(だざいのごんのそち)へと左遷され、無実の罪を訴えながらも筑前国の大宰府にて延喜3年(903年)2月25日に59歳で薨去されました。
道真公の没後、都では藤原時平をはじめとする関係者が次々と亡くなり、さらには延長8年(930年)に御所の清涼殿へ落雷が直撃して多くの公卿が死傷する「清涼殿落雷事件」が発生しました。当時の都人は、これらの天変地異を無念のうちに世を去った道真公の御霊(怨霊)による祟りであり、道真公が雷神(火雷天神)となって天から怒りを示したものと恐れました。
そうした中、天慶5年(942年)に右京七条二坊に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に道真公の御霊から「我を右近の馬場(北野の地)に祀れ」との託宣が下ります。文子は家が貧しかったため、まずは自宅の近くに小さな祠を設けてお祀りしていましたが、5年後の天暦元年(947年)には、近江国比良宮の神主・神良種(みわのよしたね)の7歳になる息子・太郎丸にも同様の託宣が下りました。これを受けて、神良種は北野の朝日寺の僧である最鎮(さいちん)や法性坊尊意(そんい)らと力を合わせ、天暦元年(947年)6月9日、古来より農耕と天候を司る「火雷神(からいしん)」や「北野の地主神」が祀られていたこの北野の地に社殿を建立し、道真公の御神霊をお迎えしました。これが北野天満宮の創建です。
その後、永延元年(987年)には第66代・一条天皇の勅命によって初めての勅祭(北野祭)が執り行われ、「北野天満宮天神」の勅号が贈られて国家鎮護の社としての地位が確立しました。初期には災厄を鎮める御霊信仰の対象であった天神様は、平安時代中期以降、道真公が生前に卓越した学者・歌人であり、最期まで誠を貫いた人物であったことから、無実の罪を晴らす「至誠の神」、そして「学問・和歌・芸能の神」へと信仰の性格を大きく広げ、皇室・公家から武家、庶民に至るまで広く敬愛される存在となっていきました。なお、この創建に至る一連の物語は、鎌倉時代初期の承久元年(1219年)に制作された国宝『北野天神縁起絵巻(承久本)』に鮮やかに描かれています。
一の鳥居から楼門、そして「星欠けの三光門」に秘められた平安京の宇宙観
今出川通に面して聳える巨大な石造の「一の鳥居」をくぐり、松並木と石灯籠が並ぶ表参道を北へ進むと、正面に壮麗な「楼門(ろうもん)」が現れます。楼門の上層に掲げられた「文道大祖 風月本主(ぶんどうのたいそ ふうげつのほんしゅ)」という大きな扁額は、平安時代中期の学者・慶滋保胤(よししげのやすたね)が道真公を讃えた願文の一節を、江戸時代中期の曼殊院門跡・良尚法親王(りょうしょうほっしんのう)が揮毫したもので、道真公が学問(文道)の大いなる祖であり、詩歌・風雅(風月)の主であることを力強く示しています。
楼門を抜けて参道を左(西)へ折れ、再び北を向くと、御本殿のすぐ手前に国の重要文化財に指定されている中門「三光門(さんこうもん)」が構えています。御本殿と同じく慶長12年(1607年)に豊臣秀頼公によって造営されたこの門は、中央に後西天皇御宸筆の『天満宮』の勅額を掲げ、梁や蟇股(かえるまた)に極彩色の精緻な彫刻が施された桃山建築の傑作です。
「三光」とは本来、太陽(日)・月・星の三つの光を指す言葉であり、門の彫刻にこれら三つの天体が刻まれていることが名称の由来とされています。しかし、より専門的には、三光門の彫刻を詳しく観察すると、赤い太陽(日)と白い三日月(月)の彫刻は存在するものの、「星」の彫刻はどこにも彫られていないことが知られており、古くから北野天満宮の七不思議の一つ「星欠けの三光門」と呼ばれています。なぜ星だけが彫られなかったのかという理由については、平安京の大内裏(現在の千本丸太町付近)にあった朝廷の正殿・大極殿(だいごくでん)から北西(乾・天門)の方角にあたる北野天満宮を望むと、ちょうどこの三光門の屋根の真上に、天帝の座とされる北極星(北辰)が燦然と輝いて見えたため、門自体にはあえて星を刻まず、夜空に輝く実物の北極星をもって日・月・星の「三光」を完成させたという壮大な伝承が残されています。平安京の都市設計と陰陽道・天文学的な宇宙観が、建築の意匠に見事に融合していることを示す象徴的なエピソードです。
北野天満宮の本殿へ

北野天満宮 本殿へ
お正月とはいえ三が日を過ぎると人はまばらでした。
北野天満宮は、全国に約1万2000社あるとされる天満宮・天神社の総本社にあたります。その創建は平安時代中期の天暦元年(947年)に遡ります。大宰府で非業の死を遂げた菅原道真公の怨霊を鎮める「御霊信仰(ごりょうしんこう)」を背景として、朝廷により祀られたのが始まりです。
創建当初は畏怖の対象であった道真公ですが、時代が下るにつれて、その生前の傑出した学識や文才、そして誠実な人柄が再評価されるようになりました。中世以降は怨霊としての性格が薄れ、現在広く親しまれている「学問の神様」「至誠(誠実)の神様」「芸能の神様」としての天神信仰へと昇華していった歴史があります。

北野天満宮 本殿(横)
国宝「御本殿」の八棟造(権現造)と豊臣秀頼公による造営
三光門をくぐった正面に広がる社殿が、国宝に指定されている北野天満宮の「御本殿(本殿・石の間・拝殿・楽の間)」です。現在の社殿は、慶長12年(1607年)、豊臣秀吉公の遺命を継いだ嗣子の豊臣秀頼公が、豊臣家の重臣・片桐且元(かたぎりかつもと)を普請奉行に任じて造営したもので、安土桃山時代の神社建築を代表する遺構として極めて高い歴史的・芸術的価値を有しています。
建築構造上の最大の特徴は、「八棟造(やつむねづくり)」と呼ばれる複雑かつ豪壮な屋根と空間の構成にあります。神様が鎮まる奥の「本殿」と、手前の参拝空間である「拝殿」との間を、一段床の低い「石の間(いしのま)」と呼ばれる相の間で連結し、さらに拝殿の左右に翼廊のような「楽の間(がくのま)」を張り出させることで、上から見ると複数の棟が縦横に組み合わさった壮大な一体建築となっています。総面積約500坪におよぶ桧皮葺(ひわだぶき)の屋根が幾重にも重なる優美な曲線美と、黄金色の錺金具(かざりかなぐ)、黒漆塗りの柱、極彩色の彫刻群が織りなす意匠は、のちに徳川家康公を祀る久能山東照宮や日光東照宮などで確立される「権現造(ごんげんづくり)」の直接の原型(現存最古級の完成形)となった建築として、日本建築史において非常に重要な位置を占めています。
また、拝殿と本殿をつなぐ「石の間」は、古くから皇族や公家、神職のみが昇殿を許された神聖な空間であり、御本殿の正面西脇には、道真公の随身(護衛)であった度会春彦(わたらいのはるひこ)をお祀りする「白太夫社(しらだゆうしゃ)」に由来する「脇障子」の彫刻なども見ることができます。
本殿背後の「御后三柱(ごこうさんばしら)」と古式ゆかしい裏参りの作法
北野天満宮の御本殿を参拝する際、正面の拝殿で手を合わせるだけでなく、ぜひ知っておきたいのが御本殿の真後ろ(北側)に設けられている「御后三柱(ごこうさんばしら)」の存在です。御本殿の建物に沿って西側または東側から裏手へと回り込むと、本殿北面の軒下に厳かな御神座が設けられています。
ここには、菅原道真公の御祖神(菅原氏の始祖)である天穂日命(あめのほひのみこと)、道真公の御祖父である菅原清公卿(すがわらのきよきみきょう)、そして道真公の御父である菅原是善卿(すがわらのこれよしきょう)の三柱の神々が「御后三柱」としてお祀りされています。江戸時代から明治時代頃までは、正面の拝殿から主祭神の道真公を参拝したあと、必ず本殿の背後へ回ってこの御后三柱にも礼拝する「裏参り(うらまいり)」を行うのが、北野天満宮における正式な参拝順路とされていました。道真公の学徳を育んだ父祖三代に敬意を表するこの裏参りの空間は、正面の賑わいとは対照的な静寂に包まれており、往時の篤い信仰の姿を今に伝えています。
北野の地主神社と「影向松」「一願成就のお牛さん」
御本殿の周囲には、約50社におよぶ摂社・末社が鎮座しており、それぞれに深い歴史が刻まれています。まず、御本殿の北側(御后三柱の向かい側)に鎮座する摂社「地主神社(じぬしじんじゃ)」は、天暦元年(947年)に道真公が祀られる以前からこの北野の地を領していた地主神「天神地祇(てんじんちぎ)」を主祭神とし、相殿に敦実親王・斎世親王・源英明朝臣の三柱をお祀りする境内最古の神社です。北野天満宮の本殿が南向きに建てられる際、古くからの地主神に遠慮して本殿の正面軸線を地主神社と重ならないようわずかにずらして造営されたと伝わっており、これも北野天満宮の七不思議の一つに数えられています。
また、境内の北西角(乾の方角)には、平安京の「天門」を守護する重要な信仰スポットが集まっています。その一つが、境内の北西隅にある末社・牛社(うししゃ)に祀られた「一願成就のお牛さん」です。北野天満宮の境内に数多くある臥牛像の中で最も古い歴史を持つ石牛であり、古くから「ひとつだけ願い事を念じて撫でると必ず叶う」として篤い信仰を集めてきました。さらに、一の鳥居を入ってすぐ右手に囲いをして大切に守られている「影向松(ようごうのまつ)」は、毎年立冬から立春までの間に初雪が降ると、大宰府から天神様(道真公の御神霊)がこの松の木に降臨されて雪見の歌を詠まれるという美しい伝承を持つ霊木です。
梅と牛
北野天満宮、菅原道真公といえば「学問」ですが、学問に加えて「梅」と「牛」です。
1月に咲く梅が少しずつ開花していました。

北野天満宮に咲く梅の花
「梅」については、道真公が幼少期よりこよなく愛し、左遷の折に「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」と詠んだ「飛梅伝説」に象徴されるように、天神信仰の根幹をなす重要なシンボルとなっています。

梅の木
付近の地名である、北野白梅町も、北野紅梅町も、こうした梅にちなんでいるのでしょう。
2月には、梅花祭があり、梅園の梅がきれいに咲き誇ります。
また、境内にはたくさんの牛がいます。
それでは北野天満宮の「牛」をどうぞ。

北野天満宮の牛 1
境内に多く鎮座する「牛」は、道真公の出生が丑年であったことや、大宰府での葬送の際に「牛車を引く牛が伏して動かなくなり、そこを御墓所と定めた」という伝承に由来する天満宮の神使(しんし=神の使い)です。

北野天満宮の牛 2
このように、境内の美しい梅や撫で牛、そして秀吉公が築いた御土居に至るまで、ひとつひとつの景観に千年以上続く信仰と歴史の変遷が息づいています。

北野天満宮の牛 3
菅原道真公の「飛梅伝説」と神使が「臥牛(なで牛)」である理由
北野天満宮の境内を歩くと、至るところで「梅」と「牛」のモチーフに出会います。まず梅については、道真公が5歳の時に初めて庭の紅梅を見て和歌を詠んだという逸話から、昌泰4年(901年)に大宰府へ左遷される際、京都の自邸・紅梅殿(現在の京都市下京区・菅大臣神社付近)の梅の木に別れを惜しんで「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」と詠んだ故事が広く知られています。主を慕うあまり、その梅が夜のうちに空を飛んで大宰府まで根づいたという「飛梅伝説」に象徴される通り、梅は道真公の御神徳そのものを表す神紋(星梅鉢紋)としても用いられており、御本殿の正面左脇にはその飛梅の原木(ゆかりの紅梅)を受け継ぐ御神木の梅が植えられています。
一方、境内に十数体ある牛の像がすべて立ち姿ではなく、地面に伏せた「臥牛(がぎゅう)」の姿をしていることにも、道真公の生涯と深く結びついた複数の理由があります。第一に、道真公が生まれた承和12年(845年)が干支で「乙丑(きのとうし)」の年であったこと、そして大宰府で亡くなった延喜3年(903年)2月25日が「丑の日」であったことです。第二に、道真公が生前「自分の遺骸は人に引かせず、牛車に乗せて牛の行くところにとどめよ」と遺言され、実際に葬送の牛車を引いていた白牛が途中でぴたりと座り込んで動かなくなったため、その場所(現在の太宰府天満宮の本殿の地)を墓所として埋葬したという伝承です。この故事に基づき、天満宮の神使である牛はすべて座り込んだ「臥牛」の姿で表されるようになりました。自分の体の悪い部分を撫でたあとに臥牛の同じ箇所を撫でると病気が平癒し、頭を撫でると知恵を授かるとされる「なで牛」の信仰は、江戸時代から現代に至るまで変わらず受け継がれています。
早春を彩る梅苑「花の庭」と梅花祭
北野天満宮の境内には、道真公ゆかりの品種である「和魂梅(わこんばい)」「黒光梅(こっこうばい)」「照水梅(しょうすいばい)」をはじめ、紅白約50種・1500本もの梅の木が植えられています。例年2月上旬から3月下旬にかけては、境内西側の史跡御土居一帯に広がる梅苑「花の庭」が特別公開され、展望台から梅の雲海と社殿を見渡す絶景や、夜間のライトアップを楽しむことができます。また、道真公の祥月命日にあたる毎年2月25日には、900年以上の歴史を持つ「梅花祭(ばいかさい)」が執り行われ、上七軒の芸舞妓による野点(梅花祭野点大茶湯)も催されて境内中が馥郁(ふくいく)たる梅の香りに包まれます。梅苑「花の庭」の詳しい見どころや開苑時期については、別ページの紹介記事もあわせてご覧ください。
御土居の大欅(ケヤキ) 東風(こち)

大欅(オオケヤキ) 北野天満宮境内
また北野天満宮の境内には、御土居だったところに樹齢約600年、幹周り約6メートルの大欅(オオケヤキ)が立っています。
案内板には、豊臣秀吉公が御土居を築いた頃から立っていると書いてありました。
確かに600年前でも1400年代で、豊臣秀吉公が存命だった1600年の少し前頃であれば既に樹齢200年位にはなっていたと考えられます。
なお、御土居(おどい)は京都の洛中洛外を仕切る土塁です。現存しているものとして、廬山寺や北野中学校の中にも御土居があります。
豊臣秀吉公が築いた国指定史跡「御土居」と紙屋川の自然地形
大欅「東風(こち)」が聳える北野天満宮の境内西側一帯は、天正19年(1591年)に豊臣秀吉公が京都の都市改造事業の一環として築造した巨大な土塁「御土居(おどい)」が、当時の姿のまま残されている極めて貴重な場所です。秀吉公は、応仁の乱で荒廃した京都を復興するにあたり、外敵からの防衛と鴨川・紙屋川の氾濫を防ぐ治水、さらに都市の境界(洛中と洛外)を明確にする目的で、京の都をぐるりと取り囲む総延長約22.5キロメートルにおよぶ土塁と堀をわずか数ヶ月で築き上げました。
江戸時代の泰平の世になると御土居の多くは市街地の拡大に伴って取り壊されましたが、北野天満宮の西側を通る御土居は神域の一部として開発を免れ、西側を流れる自然の河川・紙屋川(かみやがわ・天神川)をそのまま外堀として利用した当時の構造がほぼ完全な形で保存されています。そのため、昭和40年(1965年)には京都市内に残る御土居の代表的な遺構として国の史跡に指定されました。この御土居の上には、樹齢500年から600年を数える御神木の大欅「東風」をはじめ、御土居が築かれる室町時代以前から自生していた巨木群が根を張っており、太古の北野の森の植生と桃山時代の土木遺産が一体となった稀有な空間を形成しています。
秋の史跡御土居「もみじ苑」と紙屋川に架かる鶯橋
この史跡御土居と紙屋川の渓谷一帯には、樹齢400年を超える古木を含む約350本のカエデが自生・植栽されており、例年10月下旬から12月上旬にかけて「史跡御土居のもみじ苑」として公開されます。高低差のある御土居の上から見下ろす錦秋の渓谷や、紙屋川に架かる朱塗りの太鼓橋「鶯橋(うぐいすばし)」、国宝御本殿の桧皮葺屋根と紅葉が重なる茶室「梅交軒(ばいこうけん)」からの眺望など、京都屈指の紅葉名所として多くの参拝者を魅了します。史跡御土居のもみじ苑の詳しい様子や散策ルートについては、別ページの紹介記事もあわせてご参照ください。
北野天満宮の周り
北野天満宮の北門を出るとすぐに平野神社にも行くことができます。
年末には北野天満宮と上七軒歌舞練場で音楽フェスティバルがあったみたいですね(北野天満宮と上七軒歌舞練場で、「KYOTO NIPPON FESTIVAL−Autumn Leaves 2016−」というフェスがあったそうです(2016-17年初回投稿時点)。北野天満宮でそんなことが行われているとは知りませんでしたが、亀田誠治さんのSNS投稿で知りました)。
境内自体も結構広いのですが、北野天満宮付近、紙屋川周りにミステリースポットがたくさんあります。
あまり観光ルートとしては知られていない面白いスポットも付近にはたくさんあります。
「7回音を出したら…」という橋なんかもあります。
地元以外であまり知られていない話ですが…
名物店主の中華そば屋さんもあります。
お近くに立ち寄られた場合は、時間が合えば観光案内させていだきます。
豊臣秀吉公の「北野大茶湯」と門前名物・長五郎餅や粟餅の歴史
北野天満宮の周辺や門前町の文化を語る上で欠かすことができない歴史的事件が、天正15年(1587年)10月1日に豊臣秀吉公が北野天満宮の境内および南側の北野松原において開催した史上空前の大茶会「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」です。秀吉公は茶頭である千利休、津田宗及、今井宗久らに命じ、「武将や公家だけでなく、町人や農民、さらには異国の者に至るまで、茶の湯を嗜む者は釜一つ、釣瓶一つ、湯がなければ焦がし(麦こがし)でもよいから持参して集まれ」という高札を掲げ、800席を超える茶席が設けられたと伝えられています。現在も一の鳥居を入った参道脇には、秀吉公らが茶の湯の料水を汲んだと伝わる「太閤井戸」が残されています。
この北野大茶湯の際に境内の茶屋で餅を献上し、秀吉公から「以後、長五郎餅と名乗るべし」と賞賛されて誕生したのが、現在も毎月25日の縁日などで境内に茶店を構える「長五郎餅(ちょうごろうもち)」です。また、一の鳥居のすぐ向かい(今出川通南側)には、江戸時代初期の天和2年(1682年)創業の老舗「粟餅所・澤屋(あわもちどころ・さわや)」や、室町時代から続く湯豆腐の老舗が軒を連ねており、数百年前の参詣者が味わった門前グルメを現代も同じ場所で楽しむことができます。
京都最古の花街「上七軒」の起源と出雲阿国の歌舞伎発祥の地
北野天満宮の東門を出てすぐ東へ続く石畳の通りは、祇園甲部や先斗町などと並ぶ京都五花街の一つであり、その中で最も古い歴史を持つ「上七軒(かみしちけん)」です。室町時代の文安元年(1444年)、北野天満宮の社殿が火災で一部焼失し、その再建工事が行われた際、残った木材を使って東門前に「七軒の茶屋」を建てたことが上七軒の起源と伝えられています。のちに豊臣秀吉公が北野大茶湯を催した際、この茶屋が休憩所としてみたらし団子を献上したところ秀吉公に大いに喜ばれ、茶屋株の特権と「五つ団子」の紋章を許されました。現在も上七軒の街並みには、赤い五つ団子の提灯が軒先に掲げられています。
さらに、北野天満宮は日本の伝統芸能である「歌舞伎」の発祥の地としても知られています。慶長8年(1603年)、出雲大社の巫女であったとされる出雲阿国(いずものおくに)が、北野天満宮の境内に設けられた舞台で男装して「かぶき踊り(ややこ踊り)」を披露し、都中の熱狂的な人気を博したことが『当代記』などの文献に記録されており、これが現代の歌舞伎の直接の起源と位置づけられています。学問の神様であると同時に、茶道・華道・舞踊などの「芸能上達の神様」として芸道に携わる人々から篤く信仰されているのは、こうした室町・桃山時代からの芸能史の蓄積があるからです。
(初回投稿日 2017年1月8日)
北野天満宮(きたのてんまんぐう)
〒602-8386 京都府京都市上京区馬喰町
北野天満宮 (公式サイト)
毎月25日の縁日「天神さん(天神市)」と瑞饋祭(ずいき祭)・年中行事
北野天満宮では、菅原道真公の御誕生日である6月25日と、太宰府で薨去された2月25日にちなみ、毎月25日に縁日「天神さん(天神市)」が開催されます。東寺の弘法市(毎月21日)と並ぶ京都の二大縁日として知られ、当日は早朝から境内や今出川通・東門周辺に骨董品や古道具、着物、植木、露店など数百軒もの店が立ち並び、全国からの参拝者や愛好家で終日賑わいます。特に1月25日の「初天神(はつてんじん)」と、12月25日の「終い天神(しまいてんじん)」は一年の中でもひときわ大きな盛り上がりを見せます。
また、秋の代表的な例祭として毎年10月1日から5日にかけて斎行される「瑞饋祭(ずいきさい)」は、村上天皇の御代に始まった五穀豊穣を感謝するお祭りで、京都市の無形民俗文化財に登録されています。この祭礼では、西ノ京の神人(じにん)たちが栽培した里芋の茎である「ずいき(芋茎)」で屋根を葺き、赤茄子や唐辛子、湯葉、季節の野菜や乾物で華やかに装飾した「ずいき神輿」が御旅所へと巡行し、京都の秋を彩る伝統行事として親しまれています。
北野天満宮の基本情報・拝観時間とアクセス
北野天満宮の所在地は、京都市上京区馬喰町です。境内の参拝は自由(無料)で、開門時間は午前7時から午後5時までとなっています(ただし、梅苑やもみじ苑の夜間ライトアップ期間中や、毎月25日の縁日、正月三が日などは開門・閉門時間が拡大されます)。授与所および御朱印の受付時間は午前9時から午後4時30分までです。
公共交通機関でのアクセスは、京都市バス「北野天満宮前」バス停で下車すると一の鳥居のすぐ目の前に到着します(JR京都駅からは市バス50系統、JR二条駅や地下鉄二条駅からは市バス55系統、京阪三条駅や四条河原町からは市バス10系統・51系統、京阪出町柳駅や地下鉄今出川駅からは市バス203系統などが便利です)。鉄道を利用する場合は、嵐電(京福電気鉄道)北野線の終点「北野白梅町駅」から今出川通を東へ徒歩約5分です。また、参拝者用の駐車場も整備されていますが、毎月25日の縁日当日は終日閉鎖されるため、25日に参拝する際は公共交通機関を利用するのがおすすめです。






