京都市右京区にある嵯峨天皇の「嵯峨山上陵」に行きました。嵯峨山上陵は「さがのやまのえのみささぎ」と読むそうです。
北嵯峨の風致地区、大覚寺の近くにあり、山の上にある宮内庁管轄の天皇陵ですが、登ると京都市内を見渡すことができ、遠くには京都タワーも見えます。
嵯峨山上陵はひたすら石段で登っていくことになります。
嵯峨山上陵 登り口~石段

嵯峨山上陵 登り口
嵯峨山上陵の登り口です。
京都市右京区北嵯峨朝原山町、大覚寺(旧嵯峨院)の北方にそびえる山頂に位置する嵯峨天皇陵は、宮内庁により「嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)」として治定されています。急峻なつづら折りの石段を登り詰めた先にひっそりと佇む円丘であり、眼下には大沢池や京都市街を一望できる絶景の地にあります。

嵯峨山上陵へ続く石段
急勾配なのでヘアピン状に石段があります。
ひたすらこの石段を登っていきます。
実は途中で山道を歩くルートに逸れることができます。
ただ基本的には石段で山頂に向かった方が楽だと思います。

嵯峨天皇 嵯峨山上陵へ 京都市右京区
嵯峨天皇嵯峨山上陵の石段からの見晴らしです。
勾配がきついため、休憩がてら市内を見渡すというのもいいのではないでしょうか。

嵯峨山上陵 見晴らし
京都市内を見渡すことができます。
大覚寺の大沢池
大覚寺にある大沢池も望むことができます。

嵯峨山上陵から見る大覚寺大沢池
合間合間の景色を楽しみながらヘアピン上の石段をひたすら登り続けると、山頂に嵯峨天皇の嵯峨山上陵があります。

嵯峨山上陵から看る 大覚寺 大沢池
嵯峨山上陵まであと少しです。

嵯峨天皇 嵯峨山上陵

山頂 嵯峨天皇 嵯峨山上陵
第52代天皇である嵯峨天皇(在位809年~823年)の嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)です。この陵墓の最大の特徴は、天皇自身の強い意志による「薄葬(はくそう)」の思想が反映されている点です。
嵯峨天皇は弘仁14年(823年)の譲位後、嘉祥2年(849年)の崩御に際して「国費を費やす巨大な陵墓の造営を禁じ、山中に深く埋葬し、草木を植えて自然に還すこと」を遺詔として残しました。これは仏教的無常観の浸透や、律令国家の財政負担軽減を目指した思想的転換を示すものです。
そのため、巨大な土木工事を伴う前方後円墳などの伝統的な古墳造営は完全に終焉を迎え、山野への簡素な埋葬へと移行する歴史的過渡期を明確に示しています。

嵯峨山上陵の石標
円丘になりますが、周囲をぐるっと一周りすることができます。

現在見られる円丘や石垣は後代(主に幕末の修陵)に整備されたものであり、本来はより自然の山容に溶け込んだ形態であったと推測され、平安初期の葬送儀礼の変化を考察する上で極めて重要な史跡です。
基本は石段から登るルートですが、脇道から山道の方に行くことができます。

嵯峨天皇 嵯峨山上陵 山道ルート
この周囲をぐるっと廻る時に、「山道からのルート」と繋がります。
手軽な登山を楽しむためにたまに脇道にそれて自然の道を歩くのも良いかもしれません。
行きは石段、帰りは山道というのでも面白いかもしれません。
嵯峨天皇(神野親王)について
第52代嵯峨天皇(神野親王)は、桓武天皇の第二皇子として大同4年(809年)に即位し、平安時代初期の政治・文化の基礎を盤石なものとした傑物です。即位直後の弘仁元年(810年)、兄である平城上皇と対立した「薬子の変(平城太上天皇の変)」に勝利したことで、二所朝廷の危機を回避し、平安京への遷都を不可逆的なものとしました。
この過程で、天皇の機密文書を扱う「蔵人所(くろうどどころ)」や、京内の治安維持を担う「検非違使(けびいし)」といった令外官(りょうげのかん)を創設し、律令制を実情に合わせて変容させつつ、天皇専制的な権力基盤を強化しました。
また、文化面では唐風文化(弘仁・貞観文化)を熱心に奨励したことで知られます。日本初の勅撰漢詩集『凌雲集』を編纂させるなど宮廷の文風を興隆させ、自身も空海、橘逸勢と共に「三筆」と称されるほどの能筆家でありました。
唐の制度や文化を積極的に取り入れながら日本の国情に適合させていくその治世は、約400年続く平安時代のシステムを実質的に完成させた「平安京の真の創設者」と評価すべき極めて大きな歴史的意義を持っています。
嵯峨山上陵所在地
京都府京都市右京区北嵯峨朝原山町
-天皇陵-嵯峨天皇 嵯峨山上陵(宮内庁)
(初回投稿日 2017年10月12日)






